The Onion's A.V. Club | Michael Palin
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「...本当に世界をみたいのなら、   
ちょっと立ち止まって、“2-3   
週間、どこかへ行ってくるよ“   
と、こう来なきゃ。」   
 
by Keith Phipps


 モンティ・パイソンとしての活動を退いて以来、コメディの伝説として確立されたマイケル・ペイリンの地位に、もはや紹介文は必要ないだろう。ここ20-30年、成功の道を歩む彼は、執筆活動(アメリカでは来年の初頭に初めての小説が発表される予定[訳註:正確には95年に「Hemingway's Chair」を書いていますが、米国版は出版されていなかった模様。本文参照。])や、映画出演(「危険な動物たち」(97年)「ワンダとダイヤと優しい奴ら」(88年)「未来世紀ブラジル」(85年)「ストップ・ザ・売春天国」(82年))で成功を収めただけでなく、近年には驚いたことに、旅行家としても活動している。1989年の紀行シリーズ「80日間世界一周」では、80日間の期限付きで、航空機を使わずに世界一周の旅をした。これにつづき、「東経30度の旅:ポール・トゥ・ポール」(92年)で、ペイリンは地球の最北端から最南端までを縦断。そして最新シリーズ「Full Circle」では同名の素晴しい本も出版され[訳註:「80日間...」「東経...」も同名で既刊。]、我々も彼と共に太平洋沿岸を旅して回る事ができる。先ごろ彼が旅について、コメディ観について、そしてエスキモーのファンについて、The Onionに語った。
 

The Onion(以下O):「80日間世界一周」が放送された当初、面白い男マイケル・ペイリンに世界を回らせるお膳立て、といった感がありましたが、これは見事にあなたの2つ目のキャリアの開花につながりました。これにはどういった事情があったのでしょう?

マイケル・ペイリン(以下MP):「80日間」は僕が言い出した事だったんだ。丁度いいタイミングだったからね。僕たちはパイソン時代にあって、テレビ・シリーズを作り、映画を作り、最後に製作したのは1983年。僕は「ワンダとダイヤと優しい奴ら」をはじめ、一連の映画を撮り終えて、「撮影隊から出番の声が掛かるのを待ってウロウロするなんて、もうたくさんだ」と思ったんだ。ある日突然電話が掛かってきて、「80日間で世界一周する企画がある」って言うんだ。“僕も行けるの?“・・・「やる」って答えたよ。旅行は大好きだからね。プロモーションや何かで僕はそれまでにしょっちゅう旅をしていたけど、実際には旅行経験なんかまるでないんだ。同じホテルにばかり泊まって、空港とか記者会見場やスタジオしか見てない。本当に世界が見たいんだったら、ちょっと立ち止まって「2-3週間、どこかに行って来るよ」と、こう来なきゃ。僕のそれまでの人生にはそんな余裕なんか全然なかったけど、これこそ僕がやりたかった事なんだって気がついたんだ。世界を旅するチャンスがやって来て、努力して、僕の仕事の1つになったんだから、それに伴ういろんな問題にも対処した。「80日間世界一周」はみんなが予想していた以上に好評だったから、本も出した。そんなことがこの10年に起こった事だね。この番組が僕に旅をして、素晴しい国々を見る機会を与えてくれたんだ。今は鞄を元の場所にしまって、トラベル・シューズを放り出して、他のことをしてるよ。

O:休憩中ですか?それともこれでお終い?

MP:そうだな、僕はいつだって旅していたいけど、大きな規模での旅行はこれで最後になるだろうね。

O:「Full Circle」はこれまでで最大規模の旅ですね?

MP:最大であり、最高の旅だと思うよ、間違いなくね。一番リッチだったし、ヴァラエティに富んでいたし、数多くの国を訪れたし、様々な物を見たし、楽しい場面があった。でもそれら全てを旅して経験するのはキツイところもあったね。何日も、時には何週間も、休みもなくて、「OK、じゃあ、今晩あたり5ツ星ホテルに泊まろうか」なんて言ったって、快適な場所さえないこともあった。しょっちゅうじゃないにしろね。僕達が辿った地域を考えると、重病に罹ったりしなくて良かったよ。事故もなくラッキーだった。僕たちのツキは・・・みんなで幸運を分けあってるみたいだよ。

O:「80日間」の終りにはとてもお疲れの様に見えましたが、今回はスタート時も非常に消耗したように見えました。これには何か理由があるのですか?

MP:(笑)実はそうなんだ。旅行の前、夏の間にジョン・クリーズと一緒に「危険な動物たち」を撮影していて、映画には良くある事だけど、2週間半予定をオーバーしてた。だから僕はアラスカに発つ3日前には、ジョン・クリーズやクモやキャリー・ローウェルと一緒に、裸同然の格好でクローゼットの中に閉じ込められてたんだ。夏の間中映画を撮って、アラスカへ行って、ひどい風邪をひいたよ。集中してハード・ワークをこなした後だからだと思うけどね。なぜか体が付いていかないんだ。旅の初めには休息どころか第1回目の撮影すら出来ないんじゃないかって真剣に考えたよ。でも、進み続ければやり遂げられるっていう気構えで切り抜けたんだ。

O:太平洋沿岸を選んだのはどうしてですか?

MP:僕があまり知らない地域だから。にもかかわらず、非常によく話題にのぼるし、皆は太平洋沿岸地域の存在を新しい発電所か何かみたいに話してた。ここ数ヵ月ですこしは収まったけどね。でも、太平洋沿岸って何なんだろう?そんな単純な事なんだ。そして僕たちがそれに目を付けて、船出して、これまで誰もしたことがないであろう、あるいはしたくても出来なかった旅に、形みたいなものが与えた。びっくりするほど多種多様な国々を巡るんだから「これはいける」と思ったんだ。最終的には、予想していたよりも長期間のプロジェクトになったね。

O:1年がかりだったんでしょう?

MP:1年間の旅という事になっているけど、実際撮影したのは10ヵ月くらい。後は家に帰って休息をとったよ。

O:これを成し遂げたのはあなたが最初だとか。

MP:んー、そうだと思うよ。僕たちの撮影隊7人--実際に全行程を旅したのは5人だけど--が最初だろうね。どうして誰も太平洋沿岸地域を一気に巡りたいと思わなかったのか分からないな。クック船長のように沿岸地域やアラスカ、数々の島を何度も探検した人の足跡をたどったりはするけどね。きっと僕たちが最初だと思うな。

O:この旅は、かつて訪れた地を再訪する機会でもあったわけですが、「80日間」から「Full Circle」までの8年間で、どんな変化に気付かれましたか?

MP:中国はかなり変わっていたね。「80日間」では電車で広州から上海に北上したんだ。高層ビルが建ち並んで、地平線からはクレーンが突き出していたよ。でも今回は、広大な新しい街が湾岸に沿って建設されていた。世界中のどこを探してもあんな光景は見たことがないよ。環境整備も進んでいて、道路や新しい鉄道路線、交通システムも建設中だ。上海中の空き地が大規模に開発されてる。川沿いには幾つもの漁師の小屋や住居が建っていたけど、全部無くなっていた。そこには大きなビルが建っていて、日毎に高くなってるっていう風だったね。僕が気付いた変化はそんなところだな。

O:シリーズを始める前には、プロモーション活動を除いて、それほど旅行はされなかったのでしょう?

MP:個人で少しヨーロッパへは行ったよ。子供達が小さい頃には、セイシェルや西インド諸島でエキゾチックな休暇を取ることもあったけど、でも、その程度のものだね。

O:あなたのシリーズで特徴的なのは、あなたの視点がエキスパートというより旅行者の視点である所ですが、これはあなたにとってどのようなメリットがあるのでしょうか?

MP:そのおかげでみんなが僕に共感してくれるんだと思うよ。視聴者が僕の視点を通して番組を観るよりも、専門家の視点で、お寺の形とか木の種類を教えるような従来の番組の方が、彼ら自身で体験するには難しい事だ、と感じるんだ。たいていの人はそんな知識は持っていないけれど、旅行したいと思っているんだ。世界を見てみたいとは思うけど、ちょっとしりごみしてる。そういう人達が、適度に教養があり、それだけでなく、知らない所へ飛び込んで行って、彼らにそれを伝えようとする、僕みたいな人間を求めてるんだ。とても旅好きな人のためになる仕事だとおもうな、「自分にも出来る」っていう気になれるからね。沢山の人に言われたよ、「私がこうして旅しているのも、あなたのシリーズを観たおかげだ」ってね。でも同時に旅行嫌いな人達は、偏見を固めてしまったね。家でぬくぬくとカウチに座って観るんだ。

O:あなたが失敗したり、何でも出来るわけじゃないっていう所を見るとホッとしますね。

MP:そう、準備された事ならきちんと出来るっていう事だよ。僕はプレゼンテーションをするのは好きじゃないんだ。髪をきちんととかし付けられて、スーツを着て、とかプレゼンターらしい事はどれも好きじゃない。僕は僕自身でありたいから、旅に出ても家にいる時との違いを意識しないんだ。

O:有名人だと気付かれることは気にならないですか?

MP:いや、そうよくあることじゃないしね。アジア太平洋沿岸は事実上パイソン・フリーだから、全く気付かれないよ。予定外のスタート地点、Diomede島での事だけど、ここは僕が熱狂的に語った日付境界線上にある諸島で、木も生えていなくて、冬の間には少数のエスキモーが鯨やアザラシを捕って暮らしているんだけどね、僕たちが鯨の皮のボートに乗ろうとすると、何人かのエスキモーが駆け寄ってきたんだ。心暖かいエスキモーのお別れかと思ったら、1人が僕を指差してこう言ったんだ。「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイルの人でしょ?」。あれはマズいスタートだったね。「参ったな、逃げ場なしだ」と思ったよ。でも幸運にもアジア太平洋沿岸の殆どで気付かれなかったし、ラテン・アメリカと南アメリカでも気付かれなかった。おかげでやりやすかったよ。こういう旅の目的は世界を見て回る事であって、主役は僕たちではないんだ。注目の的にならない様にしたい。僕たちは、人々のありのままの姿を見たいんだ。

O:これまで眠った所で一番ヒドかったのはどこですか?

MP:うーん、具体的には言えないな。あれはホテル・・・そう、ホテルと言うのは言い過ぎかもしれないけど、ホテルと呼ばれてた。「東経30度の旅」でエチオピアに行った時の事だよ。土の床の泥の小屋みたいなもので、枕は使い古しの袋で出来てた。時計を見ようと明りをつける度に、ゴキブリみたいな虫が1ダースほども逃げて行くんだ。あれほど虫にたかられたりする恐怖を味わった夜は初めてだったよ。その上、竹と土の仕切りごしに色っぽい声が聞こえて来るんだ。「こんな虫だらけの所で、どうやってるんだ?」と思ったね。あれだけは二度とご免だ。

O:ダウ(インド洋とその周辺で用いられている“ロー・テク“ボート)も寝心地が良さそうには見えませんでしたよ。

MP:いや、ダウは良かったよ。星空の下、ペルシャ湾を南下する船の甲板で、涼しい風に吹かれながら眠ったからね。素晴しかったよ。座ってるのはキツかったけど、眠るには最高だったよ。

O:食べ物はどうですか?旅先で食べておいしかったもの、ヒドかったものは何ですか?

MP:そうだな、僕は食べ物はその土地の文化の大部分を占めているものだと思うんだ。だから、言葉が通じない人達と理解し合いたいと思うなら、彼らが食べるものを食べ、飲むものを飲むべきだと思うよ。それが歓迎の気持ちを表わす方法である場合が多いからね。気持ち悪い腐ったような物を食べる羽目にならない事を祈るよ。その点で僕はラッキーだったな。微生物度の低い旅をして来られた。でもすごく変わったものにも出会ったよ。メキシコ・シティのレストランで出されたウジとかね。ちゃんとメニューに載ってるんだよ。それにアマゾンにあるインディアンの村で出された、ものすごく強い椰子ワイン。アマゾンの砂糖がよく採れる地域では砂糖でそれを発酵させるんだけど、砂糖が採れない地域では、お婆さんがその中にツバを吐いて、ツバで発酵させるんだ。それを聞いた時すでに2杯飲んでしまってたから、ガイドさんに恐る恐る聞いてみたよ「この村では砂糖はよく採れるの?」ってね。そうしたら彼は首を横に振って「いいえ、この辺りで砂糖は採れません」って言うんだ。耐えなきゃって思ったね。気持ちは悪くなるけど。アマゾンの土嚢の上で8日間キャンプする事になった時、1晩か2晩、いつもの様にトイレに起きたんだ。世界一惨めで情けない洗面設備にたどり着くのを内臓が待ち構えてる状態で彼らにからかわれたよ。愉快ではなかったね。

O:心の底から恐ろしい思いをした事はありますか?

MP:うーん・・・あるよ。コロンビアのボゴタの物騒な下町を通った時だね。並外れた富と並外れた貧困が共存している所なんだ。ドラッグも大量に売買されていて、僕達はその弾丸通りと呼ばれるエリアを通ったんだ。車から一歩も出てはいけない、カメラも出来るだけ低くしておくように言われていたんだけど、誰かがカメラに気付いてしまって、彼らが住んでいる段ボールの小屋から覗いては、コンクリートのブロックだとか木のかけらとか、手当りしだいに車に投げつけて来たんだ。急いで通り過ぎたよ。

O:でも、弾丸は来なかった。

MP:弾丸はなかった。最後にカメラマンが、引き返せたらもっといいショットが撮れるって言ったら、ガイドさんは「バカ言うな。今度は弾丸だぞ」って。そういう所なんだ。それからもう1ヵ所、アマゾンでキャンプの一夜だね。正確にはアマゾンの支流の土手だった。午前2時頃トイレに起きて、ジャングルの中をキャンプに戻ろうと歩いていたんだ。すると光るものが近づいて来るのが見えた。あるものは岸に沿って、あるものは向こう岸から僕に近づいて来る。いくつものランプやライトみたいなものが僕に向かって来るんだ。キャンプからは物音も聞こえないし、明りもない。僕が聞いたこの村の言い伝えによると、西洋人に限って、しばしばこういうものを見る事があるというんだ。喉を掻き切られて死んだ人達、中でも彼らが言うところのpetroleros---石油を掘りに来た人達---の、非業の死にまつわる恐ろしい話だよ。ひどい死に方をした人達に出会った人がいるんだ。「大変だ、僕たちについて来る気なんだ」と思って、自分のテントに飛び込んで息を殺して座りこんだ。明りを消して、心臓をドキドキさせてた。しばらくしてカーテンの隙間から見てみると正体がわかったよ。いくつものボートや人が、岸を歩いて釣りに行く所だったんだ。夜のほうが魚がかかりやすいから、夜釣りをする釣り人のグループが歩いていたんだよ。でも今にしてみれば、黙示録の終りの所みたいだね。「ああ、これこそ滅亡だ」。

O:では、あなたの旅ではない次のプロジェクトとは何ですか?

MP:来年は小説を書こうと思っているよ。4年位前に「Hemingway's Chair」というのを書いたんだけどね。

O:それが5月に出版されるんですね?

MP:ああ、5月に出版される予定だと聞いているよ。また違った感じのを書きたいから、映画に関わるよりも、1年の内で最高の季節を家で過ごそうと思っているんだ。全員20代になってエキサイティングに活動している子供たちと過ごすよ。今起こっている事を見逃したくないから、これからはもうすこし腰を据えていこうと思ってる。

O:面倒な映画撮影はご免、ですか?

MP:ああ、しばらくの間はね。

O:「危険な動物たち」では我慢を強いられた、という噂がありましたが、これは本当ですか?

MP:我慢を強いられた?そりゃあ「ワンダ」の時ほどは楽しくなかったよ。予定をオーバーした事ははじめにも話したけど---おかげでアラスカに発つまで3日しか休みがなかったんだけど---皮肉なことに、僕が旅から戻ってから、映画の再撮影を3週間しなくちゃならなかったんだ。新しいエンディングを撮影しなきゃならなかった。僕はこちらの方がだいぶ良いと思ったエンディングをね。そして最終的には、とても面白い映画に仕上がったと思うよ。「ワンダ」のような魔法のような要素はないけどね。どうしてそうなったかは誰にもわからない。比べられるのは仕方がない事だし、評価もとても厳しいんだろうと思う。厳しすぎるくらいだよ。僕は「危険な動物たち」には本当に面白いシーンが沢山あると思うよ。それに僕が思うに、米国での公開パターンはおかしかったよ。一斉に全国で公開して、ちょっとでもうまく行かない気配があると、すぐにパニックになった。他の国ではそんなことは起こらなかったよ。

O:かなり酷な比べられ方でした。

MP:そうだね。でもアメリカのレビューの中にはとても好意的なものもあったよ。“「ワンダ」がなければきちんと上映されただろうし、観客も「おい、これは面白い。良くできた動物園ものだし、ジョン・クリーズも動物もすごく面白い。」と言っただろう“というのもあった。僕はこうなるべくしてなったとは思わないよ。いくつかの地域ではとても好評だったしね。

O:何年もの間、より問題作だったモンティ・パイソンより、それ以外の映画の陰になってしまうというのは意外ですね。

MP:そう、僕はいつも考えるんだけど、かつてした事、かつて成功したことから進歩しようとすると、必ず比較される。そして「ワンダ」は、なんと言うか、モンティ・パイソンから離れて製作されたし、パイソンとは全く関係ない。(パイソンズではなく)ジョン・クリーズの脚本だ。でも「ワンダ」はすぐに独自の伝説が作り上げられた。問題は続編を創るまで長い間待ちすぎたことなんじゃないか、と思うよ。もっと早くやるべきだったんじゃないかな。分からないけどね、後からなら何とでも言えるよ。僕はこの作品はジョンの作品の中でも最も面白い部類に入ると思うよ。

O:モンティ・パイソンの不滅の魅力は何だと思われますか?

MP:うーん、不敬で破壊的な要素なんかが挙げられるんじゃないかな、それにメインストリームの番組じゃないことも多少は関係してると思う。明らかに特異な番組だよ。パイソンみたいな事をした人なんて、かつて一人もいないと思うよ。それに僕たちのスケッチとテリー・ギリアムのアニメのコンビネーション。それまで誰もそんなことしてなかった。特に子供は、楽しい反権威主義、ちょっと破壊的で、今までのテレビ・コメディとは全く異なるものとして観ていたんじゃないかな。パイソンにはいいキャラクターが沢山いたし。1-2分間と短くても、とても魅力的なスケッチがある。特に攻撃的でもないし、全世界を敵にまわしてるわけでも全然ない。奇妙でシュールな面があると同時に批評するためにセッティングしたようなものもある。本当にごちゃ混ぜなんだけど、そこが良い所なんだろうと思うよ。

O:これまでにメンバーの方々は、当時自分たちが革命的な事をしているとは全く思っていなかった、と言っていますが、今から考えるといかがですか?

MP:やっている時に考える事といったら「今週はウケるか?ウケないか?」って事以外にない思うよ。放送されたエピソードを観て、ウケたかウケなかったかで一喜一憂してたんだ。いつでもより良いものを求めていた。僕たち自身まだ未熟だと思っていたあの番組が、何度も再放送されて、ある人はコレ、またある人はアレ、とお気に入りのネタを見つけてくれるようになるとは、みんな想像した事もなかったと思うね。60年代から70年代の初め頃、誰もが物事はどんどん良くなっていくものだと感じていたと思う。技術はより一層洗練されてゆき、書くことも、演じることも、何だってより良くなると思っていた。僕らは右肩上がりのグラフの一部にすぎなかったんだ。パイソン直後、グラフは平坦域に入った。そして大した変化は現われなかった。僕は今から振り返ってみると、あれはタイミングの問題だったんじゃないかと思うんだ。イギリスでテレビは古いありきたりのコメディーの形式から解放されたけれど、今ほど近代技術は導入されていない、正にその時、スタートしたのはとても幸運だった。テリー・ギリアムがパイソンズでアニメーションを担当してた時は、今みたいにペイントボックスとコンピュータで描いた画像は使わなかった。彼は紙をいくつも切り抜いて、それをくっつけて、少し動かしては撮って、少し動かしてはまた撮って、また少し動かして・・・これを全部一人でやってた。だから、おかしな話だけど、何かそういう所がパイソンズが特別である由縁じゃないかと思うね。当時僕たちは、最高の珍品をつくってる、くらいにしか考えていなかったよ。

 
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